白川茶の沿革
白川茶の起源は明らかではないが伝説によると、東白川村大沢(五加)の 蟠竜寺の住職が山城の国宇治から茶の種子を持ち帰って栽培したところ地味が適しており、近郷に広まったのが白川茶であるとゆう。
また一説には、白山神社を創設した泰澄大師が養老年間(今より1250年前)に始めて当地に茶を伝えたとゆうのがその真偽は詳かではない。上田村の石盛表に「茶原」と記載があるところから、少なくとも400年以前から栽培された事は明らかである。
往時の製茶法の上製は、七度妙めと称し生葉を釜で妙り、これをあげて揉み、再び釜で妙って揉み、之を七度練り返して乾したという。並製はきわめて粗製で一度湯に通して乾燥しただけであった。天保時代になって茶樹が殖え製法も内津製といって釜で妙り蓆の上で揉み陰乾とした。此の製法になってから、農家は唯一の副業として茶樹の栽培と製造にっとめた。
明治に入り貿易品として海外に市場を求め輸出が活発に 行なわれた。白川茶も明治14年に神戸港よりサンフランシスコヘ輸出をした記録がある。しかし主として内地向けで、信濃、飛騨地方へ出荷しいわゆる白川茶の声価をたかめて行った。
製法も釜妙製から青蒸製、炉製と改良されてきた。製茶機械は大正11年に広野の白川茶協同組合が静岡の高林式を導入したのが始りで、漸次普及し、茶の栽培技術も先進地 静岡を範として改善され、茶の品種も優良品種、ヤブキタ等が導入され、茶繭生産も管内で行なわれる様になり、農業構造改善事業等による茶園造成や共同による大型工場の建設がなされた。
(白川町誌、東白川村誌より)